歴史ライター、商業コピーライター
源満快 満国: 行頼: 頼季 為満: 景行: 行広 為公 為衡: 為扶 [信濃村上氏] 為邦 [依田氏] 依田為実 [片切氏] 為基: 為氏 為貞: 公家: 公扶: 国高: 実信: 為行: 為広 中津頼継: 伊那快実: 林快次 [夏目氏] 夏目國忠: 信行: 飯沼行俊: 片切為重: 行心: 飯島為綱: 片切景重: 大島宗綱 手塚信澄: � ©Copyright2020 日本の歴史を分かりやすく解説! ID: F3SO8W/aaJ, 2019/04/19(金) 01:18:11 おすす … 『オヤジが美少女になってた話』作者がヘアドネーション体験マンガを発表. 生まれた翌年に、父である義賢が大蔵合戦で敗死し、信濃(現在の長野県)の中原兼遠に保護され、信濃の木曽谷の木曽山下で成長します。, ここから始まる動乱に身を投じた義仲は、源頼朝、平氏と全国を三分する大人物となっていきます。, 以仁王の令旨が下されると、各地で武士たちが立ち上がり始め、治承・寿永の内乱が始まります。, 当時、義仲には、養父・中原兼遠の息子たちや、亡き父・義賢の郎党(従者)など、支持勢力がありました。, これによって義仲は、以仁王と源頼政の遺志を継ぐ存在として、皇位継承戦争へと加わることになります。, 安徳天皇を擁する平氏と、後鳥羽天皇を即位させたい後白河院、そして北陸宮を奉じて戦ってきた義仲。, 篠原合戦に勝利し、義仲が京都を包囲すると、平氏一門は京都に留まることを諦め、福原へ退きます。, こうして、全国は西に平氏、東に頼朝、都に義仲と三分し、「三国史の如し」と表される情勢となります。, そんな中、平氏政権時からの都の食糧危機に加え、義仲の軍勢の乱れによる都の治安の悪化が起こります。, 義仲は征夷大将軍に任ぜられますが、もはや後白河院との対立はどうにもならず、頼朝との対決を避けられなくなります。, そして、頼朝から命令を受けた源範頼、源義経の上洛軍が、1月20日、宇治と瀬田から京都へと攻め込みました。, 人心を失っていた義仲に従う兵はいなくなってしまい、宇治川での戦いで、義仲は敗走を余儀なくされます。, 義仲は今井兼平を始めとする数名の部下と落ち延びますが、近江(滋賀県)の粟津にて敗死します。, 最後まで義仲のもとに残った武士の中心は、挙兵から義仲を支え続けた信濃・上野の武士でした。, ある人たちにとっては粗暴な田舎者だったとしても、また別の人たちにとっては、義仲はカリスマだったのでしょう。. No reproduction or republication without written permission. 源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる[2]。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている[要出典]。, 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍[注釈 1]となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。, 河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。義賢は武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘を娶るが、義仲の生母は遊女と伝えられる。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)と伝えられる[注釈 3]。, 『平家物語』や『源平盛衰記』によれば、父・義賢はその兄(義仲にとって伯父)・義朝との対立により大蔵合戦で義朝の長男(義仲にとって従兄)・義平に討たれる。当時2歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されるが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという。『吾妻鏡』によれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。異母兄の源仲家は義賢の死後、京都で源頼政の養子となっている。, 『源平盛衰記』によると「信濃の国安曇郡に木曽という山里あり。義仲ここに居住す」と記されており、現在の木曽は当時美濃の国であったことから、義仲が匿われていたのは、今の東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)という説もある[注釈 4]。諏訪大社に伝わる伝承では一時期、下社の宮司である金刺盛澄に預けられて修行したといわれている。こうした事とも関係してか、後に手塚光盛などの金刺一族が挙兵当初から中原一族と並ぶ義仲の腹心となっている。, 治承4年(1180年)、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかける。八条院蔵人となっていた兄・仲家は、5月の以仁王の挙兵に参戦し、頼政と共に宇治で討死している。, 木曽義仲は小見「麻績」の戦い合田の戦いに勝利し同年9月7日、義仲は兵を率いて北信の源氏方救援に向かい(市原合戦)、そのまま父の旧領である多胡郡のある上野国へと向かう。2ヵ月後に信濃国に戻り、小県郡依田城にて挙兵する。上野から信濃に戻ったのは、頼朝あるいは藤姓足利氏と衝突することを避けるためと言われている[注釈 5]。, 翌年の治承5年(1181年)6月、小県郡の白鳥河原に木曾衆・佐久衆・上州衆など3千騎を集結、越後国から攻め込んできた城助職を横田河原の戦いで破り、そのまま越後から北陸道へと進んだ。寿永元年(1182年)、北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示し、また、頼朝と結んで南信濃に進出した武田信光ら甲斐源氏との衝突を避けるために頼朝・信光の勢力が浸透していない北陸に勢力を広める。, 寿永2年(1183年)2月、頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、この2人の叔父を庇護した事で頼朝と義仲の関係は悪化する。また『平家物語』『源平盛衰記』では、武田信光が娘を義仲の嫡男・義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したとしている。両者の武力衝突寸前に和議が成立し、3月に義高を人質として鎌倉に送る事で頼朝との対立は一応の決着がつく。, 平維盛を大将に平家は十万の大軍を率いて北陸へ。越前火打城の戦い 「燧ヶ城」、「三条野の戦い」で勝利した平氏は,加賀「安宅の関」と連戦連勝と破竹の進撃を続け、木曾勢の築いた城を攻め、越前・加賀・越中の木曽軍の城(砦)を攻略し越前、加賀の国も支配し残るは越中のみ。, 木曽義仲の四天王の1人今井兼平は6千の先遣隊を平家 平盛俊の先遣隊が陣を張る般若野を奇襲する(般若野の戦い)。この奇襲が功を奏して平家軍が倶利伽羅峠の西に戻る事になる。, 5月11日、越中国礪波山の倶利伽羅峠の戦いで10万とも言われる平維盛率いる平氏の北陸追討軍を破り、続く篠原の戦いにも勝利して勝ちに乗った義仲軍は沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍する。6月10日には越前国、13日には近江国へ入り、6月末に都への最後の関門である延暦寺との交渉を始める。右筆の大夫房覚明に書かせた諜状(通告文書)の内容は「平氏に味方するのか、源氏に味方するのか、もし悪徒平氏に助力するのであれば我々は大衆と合戦する事になる。もし合戦になれば延暦寺は瞬く間に滅亡するだろう」という些か恫喝めいたものだった。7月22日に義仲が東塔惣持院に城郭を構えたことが明らかとなる。また、源行家が伊賀方面から進攻し、安田義定ら他の源氏武将も都に迫り、摂津国の多田行綱も不穏な動きを見せるようになる。25日、都の防衛を断念した平氏は安徳天皇とその異母弟・守貞親王(皇太子に擬された)を擁して西国へ逃れた。なお平氏は後白河法皇も伴うつもりであったが、危機を察した法皇は比叡山に登って身を隠し、都落ちをやりすごした。, 7月27日、後白河法皇は義仲に同心した山本義経の子、錦部冠者義高に守護されて都に戻る。『平家物語』では、「この20余年見られなかった源氏の白旗が、今日はじめて都に入る」とその感慨を書いている。義仲は翌日28日に入京、行家と共に蓮華王院に参上し、平氏追討を命じられる。2人は相並んで前後せず、序列を争っていた[注釈 6]。
©The Asahi Shimbun Company / VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved. 1 馬車や農機などの車輪が動かないよう、所定の穴に指して固定するピン。2 (比喩的に)物事の要(かなめ)。... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 タグ. !」, 病気やケガでボロボロだった猫が一変……! 優しい飼い主に保護された猫が幸せな暮らしを手に入れる, 伸びた髪を切る時の「圧倒的な断捨離感」が人のために!? 関連記事 >>>> 「木曽義仲とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」. ID: 09DI/5nEL1, 2019/01/12(土) 00:31:26 また、当サイトで提供する用語解説の著作権は、(株)朝日新聞社及び(株)朝日新聞出版等の権利者に帰属します。 ID: ZtFFCEQyC2, 2020/02/15(土) 19:20:28 近江,粟津平安時代末期の武将。義賢の次男。母は遊女某。幼名,駒王丸。2歳のとき父が源義平に殺されたのち,乳母の夫中原兼遠に木曾で育てられ,木曾次郎と称した。 源義仲(木曽義仲)の人生は、人生は波乱に満ちていました。 1154年。 源義賢の息子として誕生。 生まれた翌年に、父である義賢が大蔵合戦で敗死し、信濃(現在の長野県)の中原兼遠に保護され、信濃の木曽谷の木曽山下で成長します。 義仲が27歳の1180年に、以仁王の令旨が下されます。 ここから始まる動乱に身を投じた義仲は、源頼朝、平氏と全国を三分する大人物となっていきます。 タグ. 源満快流 系図. ID: S2ftME0CVg, 2018/06/28(木) 21:50:16 平安末期・鎌倉初期の武将。義賢の二男。父が源義平に殺され、乳母の夫中原兼遠によって木曾山中で成長したので、木曾義仲とも呼ばれた。以仁王. 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku. 30日に開かれた公卿議定において、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになった[3]。同時に京中の狼藉の取り締まりが義仲に委ねられることになる。義仲は入京した同盟軍の武将を周辺に配置して、自らは中心地である九重(左京)の守護を担当した[4]。, 8月10日に勧賞の除目が行われ、義仲は従五位下・左馬頭・越後守、行家は従五位下・備後守に任ぜられる[5]。16日になると、義仲は伊予守、行家は備前守に遷った。『平家物語』ではここで義仲が朝日の将軍という称号を得て、義仲と行家が任国を嫌ったので義仲が源氏総領家にゆかりのある伊予守に、行家が備前守に遷ったとしているが、義仲と差があるとして不満を示したのは行家のみで、義仲が忌避した記録は見られない[6]。, 後白河法皇は天皇・神器の返還を平氏に求めたが、交渉は不調に終わった[7]。やむを得ず、都に残っている高倉上皇の二人の皇子、三之宮(惟明親王)か四之宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)のいずれかを擁立することに決める。ところがこの際に義仲は今度の大功は自らが推戴してきた北陸宮の力であり、また平氏の悪政がなければ以仁王が即位していたはずなので以仁王の系統こそが正統な皇統として、北陸宮を即位させるよう比叡山の俊堯を介して朝廷に申し立てた。, しかし天皇の皇子が二人もいるのに、それを無視して王の子にすぎない北陸宮を即位させるという皇統を無視した提案を朝廷側が受け入れるはずもなかった。摂政・九条兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」[8]と言うように、武士などの「皇族・貴族にあらざる人」が皇位継承問題に介入してくること自体が、皇族・貴族にとって不快であった。朝廷では義仲を制するための御占が数度行なわれた末、8月20日に四之宮が践祚した。兄であるはずの三之宮が退けられたのは、法皇の寵妃・丹後局の夢想が大きく作用したという[9]。, いずれにしても北陸宮推挙の一件は、伝統や格式を重んじる法皇や公卿達から、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がない「粗野な人物」として疎まれる契機となるに十分だった。山村に育った義仲は、半ば貴族化した平氏一門や幼少期を京都で過ごした頼朝とは違い、そうした世界に触れる機会が存在しなかったのである。, また義仲は京都の治安回復にも期日を要した。養和の飢饉で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために、遠征軍による都や周辺での略奪行為が横行する。9月になると「凡そ近日の天下武士の外、一日存命の計略無し。仍つて上下多く片山田舎等に逃げ去ると云々。四方皆塞がり、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られ了んぬ。段歩残らず。又京中の片山及び神社仏寺、人屋在家、悉く以て追捕す。その外適々不慮の前途を遂ぐる所の庄上の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪ひ取り了んぬ」[10]という有様で、治安は悪化の一途を辿った。京中守護軍は義仲の部下ではなく、行家や安田義定、近江源氏・美濃源氏・摂津源氏などの混成軍であり、義仲が全体の統制が出来る状態になかった。, 『平家物語』には狼藉停止の命令に対して、「都の守護に任じる者が馬の一疋を飼って乗らないはずがない。青田を刈って馬草にすることをいちいち咎めることもあるまい。兵粮米が無ければ、若い者が片隅で徴発することのどこが悪いのだ。大臣家や宮の御所に押し入ったわけではないぞ」と義仲の開き直りとも取れる発言が記されている。, 後白河法皇は19日に義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」[11]と責めた。立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、法皇は自ら剣を与え出陣させた。義仲は、失った信用の回復や兵糧の確保のために、戦果を挙げなければならなかった。義仲は腹心の樋口兼光を京都に残して播磨国へ下向した。, 義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷に頼朝の申状が届く。内容は「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」[12]と朝廷を大いに喜ばせるものであった。10月9日、法皇は頼朝を本位に復して赦免、14日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える[13]。, 義仲は、西国で苦戦を続けていた。閏10月1日の水島の戦いでは平氏軍に惨敗し、有力武将の矢田義清・海野幸広を失う。戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報だった[14][注釈 7]。驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、15日に少数の軍勢で帰京する。20日、義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河院に激烈な抗議をした[15]。義仲は、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給[16]、志田義広の平氏追討使への起用を要求する。, 義仲の敵はすでに平氏ではなく頼朝に変わっていた。19日の源氏一族の会合では法皇を奉じて関東に出陣するという案を出し[17]、26日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下された[18]。しかし、前者は行家、土岐光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものだった[19][注釈 8]。, 11月4日、源義経の軍が布和の関(不破の関)にまで達したことで、義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟を固める。一方、頼朝軍入京間近の報に力を得た後白河法皇は、義仲を京都から放逐するため、義仲軍と対抗できる戦力の増強を図るようになる。義仲は義経の手勢が少数であれば入京を認めると妥協案を示すが[20]、法皇は延暦寺や園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ法住寺殿の武装化を計った。さらに義仲陣営の摂津源氏・美濃源氏などを味方に引き入れて、数の上では義仲軍を凌いだ。, 院側の武力の中心である源行家は、重大な局面であったにもかかわらず平氏追討のため京を離れていたが[21]、圧倒的優位に立ったと判断した法皇は義仲に対して最後通牒を行う。その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」という、義仲に弁解の余地を与えない厳しいものだった[22]。, これに対して義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。九条兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」と義仲を擁護している[23]。義仲の返答に法皇がどう対応したのかは定かでないが、18日に後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入っており、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。, 11月19日、追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃する。院側は土岐光長・光経父子が奮戦したが、義仲軍の決死の猛攻の前に大敗した。義仲の士卒は、御所から脱出しようとした後白河法皇を捕縛して歓喜の声を上げた(『玉葉』同日条)。義仲は法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉する。この戦闘により明雲や円恵法親王が戦死した。九条兼実は「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」[24]と慨嘆している。義仲は天台宗の最高の地位にある僧の明雲の首を「そんな者が何だ」と川に投げ捨てたという[25]。20日、義仲は五条河原に光長以下百余の首をさらした[26]。, 21日、義仲は松殿基房(前関白)と連携して「世間の事松殿に申し合はせ、毎事沙汰を致すべし」[27]と命じ、22日、基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。『平家物語』は義仲が基房の娘(藤原伊子とされる)を強引に自分の妻にしたとするが、実際には復権を目論む基房が義仲と手を結び、娘を嫁がせたと見られる[注釈 9]。, 11月28日、新摂政・松殿師家が下文を出し、前摂政・近衛基通の家領八十余所を義仲に与えることが決まり、中納言・藤原朝方以下43人が解官された[28]。12月1日、義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握する[29][注釈 10][30]。10日には源頼朝追討の院庁下文を発給させ、形式的には官軍の体裁を整えた[31]。, 平家物語には、義仲が幼い頃から苦楽を共にしてきた巴御前との別れ、今井兼平との語らい等、巴や兼平の義仲へのお互いの苦しいいたわりの気持ち、美しい主従の絆が書かれている。, 寿永3年(1184年)1月6日、鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、義仲は怖れ慄いた。15日には自らを征東大将軍に任命させた[注釈 1]。平氏との和睦工作や、後白河法皇を伴っての北国下向を模索するが、源範頼・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされる。義仲は京都の防備を固めるが、法皇幽閉にはじまる一連の行動により既に人望を失っていた義仲に付き従う兵は無く、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した(宇治川の戦い)。, 戦いに敗れた義仲は今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びるが、20日、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にした(粟津の戦い)。九条兼実は「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤と比するに、猶その晩きを思ふ」[32]と評した。享年31。, 義仲が戦死したとき嫡男・義高は頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいたが、逃亡を図って討たれた。義仲の家系は絶えたとされるが諸説あり、戦国大名の木曾氏は義仲の子孫を自称している。, 全国の朝日とつく名前の町村は、朝日将軍義仲のゆかりが深いところが多い。明治27年9月に東京帝国大学史編纂官重野安繹(やすつぐ)博士が、旧制松本中学(現, 義仲が木曾谷で成長していることから、当然のように木曾谷にて挙兵したと考えられている。『源平盛衰記』でも、滋野行親が木曾谷の山下(現在の木曽町新開上田付近)で兵を集めたと記述されている。だが、, 『玉葉』7月28日条には、「参入の間、かの両人相並び、敢へて前後せず。争権の意趣これを以て知るべし」とある。, 『玉葉』閏10月17日条には、「或人云はく、頼朝の郎従等、多く以て秀平の許に向ふ。仍つて秀平頼朝の士卒異心ある由を知り、内々飛脚を以て義仲に触れ示す」とあり、, 義仲に従ったのは子飼いの部下を除くと、志田義広と近江源氏だけだった。義広は義仲滅亡後も抵抗を続けるが、元暦元年(1184年)5月4日に鎌倉軍との戦闘で討ち取られる。近江源氏の山本義経は法住寺合戦後に若狭守に任じられるが、その後の消息は不明である。, 義仲と基房の娘の婚姻を語るのは『平家物語』だけで、『玉葉』『愚管抄』には記述がないため、『平家物語』の創作とする見解もある。, 平治の乱以降、院御厩別当と左馬頭は平氏一門が独占していた。ただし12月10日には、左馬頭を辞任している。同一人物が両方の職を兼任することはなかったため、その先例に従ったものと推測される。, 岩手県立博物館平成16年度伝統芸能鑑賞会/岩手県文化財愛護協会第57回岩手郷土芸能祭, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=源義仲&oldid=80290569. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 源義仲の用語解説 - [生]久寿1(1154)[没]寿永3(1184).1.20. !.All Rights Reserved. 幼名は駒王丸。通称木曽冠者、または朝日 将軍。 源義賢の次男で母は遊女とされる。. 源義仲 / 木曽義仲(1154~1184)とは、平安時代 末期に活躍した武将である。. 源義仲 / 木曽義仲(1154~1184)とは、平安時代末期に活躍した武将である。, 1155年8月、大蔵合戦で父・源義賢がその兄・源義朝の息子である源義平に討たれた時にはまだ二歳であり、斎藤実盛の計らいで信濃国木曽の豪族、中原兼遠のもとに逃れ養育された。ここからしばらくは彼の足跡をたどることは難しい一方、兄の源仲家は八条院と結びついた軍事貴族として源頼政の養子となっており、以仁王の挙兵でその最期を共にしている。, そして彼が再び歴史の表舞台にたつのは1180年9月である。信濃国市原で平家方の笠原頼直を破り、そのまま信濃に勢力を築く。さらに10月には上野国へ進出し先代の郎党を確保したものの、源頼朝との衝突を避けいったん引き上げている。そして、1181年6月には甲斐源氏・信濃源氏と協力して越後から遠征してきた城助職(城長茂)を横田河原の戦いで破り、大勝をおさめたのである。, その後源義仲は城氏を追って北陸道に進出。しかしその一方で頼朝と対立した、叔父である志田義広、新宮行家を抱え込み従兄弟の源頼朝と一触即発の事態に陥っていた。しかしこの件に関しては嫡子・清水義高を頼朝の長女・大姫と婚姻させることで和睦を結び、後顧の憂いをなくした義仲はより一層北陸道を制圧していった。, そして起きたのが1183年5月の越中での倶利伽羅峠の戦い、加賀での篠原の戦いでの大勝利であり、命の恩人である斎藤実盛を討ち取ってしまったものの、平家の前線指揮官クラスを多数討ち取ることに成功したのである。そして1183年7月に安田義定や多田行綱といった軍事貴族の支援を得て、一気に入京。平家の都落ちを実現し、後白河院からは平家追討・洛中警護を任じられ、伊予守になった。, しかしこのような混成軍の統率は困難を極め、さらに八条院派として以仁王子息・北陸宮を天皇位に即位させようとする強引さは八条院本人からも距離を置かれ、おまけに中央政権を担うノウハウのなかった彼は次第に孤立することとなった。, そして起きてしまったのが1183年閏10月の水島の戦いでの大敗である。足利義兼の兄である矢田義清、古参の郎党であった海野幸広といった譜代の主力家臣を失ってしまった彼は、ついに11月に法住寺合戦で後白河院を襲撃。軍事力に欠けた後白河院を幽閉し、院御厩別当となり、摂関を平家ににらまれ逼塞していた松殿基房の息子・松殿師家に任じ、自らを征東大将軍に任じさせた。, しかしもはや源頼朝との対決は避けられない段階まで来ており、1184年正月に源範頼、源義経両軍に敗走。今井兼平に自害を勧められるも、深田に入って馬が動けなくなった隙を石田為久に討ち取られて亡くなった。こうして一時は第三勢力として重要な役割を担った源義仲軍はあっけなく壊滅したのであった。, この後、彼の子である清水義高も誅殺されたはずなのだが、信濃の豪族である木曽氏は彼の子孫を名乗っている。, 2018/03/04(日) 21:09:04
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